※当サイトはアフィリエイト広告を掲載しています

私たちの勝利は近い、勝利の後の衝撃に備えよ。トランプとEBS、台湾と中国について:リカルド・ボジ

おすすめの記事

◆メールで更新をお知らせします◆

(迷惑メールフォルダを確認し確認メールをクリックして下さい)


 

私たちの勝利は近い、勝利の後の衝撃に備えよ。トランプとEBS、台湾と中国について:リカルド・ボジ

対ニューワールドオーダー最前線のオーストラリアで闘う元特殊部隊出身の政治家、リカルド・ボジ隊長のスピーチです。

ホワイトハットと間違いなく通じている人が、これから何が起こるのか具体的に語っています。
現場に立って直接活動している人でこれほどはっきりとものを言ってくれる人は他にいないでしょう。
それだけ目覚めが進んでいるため、分断を恐れず本当のことをそのまま言えるのだと思います。
日本でもこれから起こってくる話ですから参考にしてください。

ラグビーのスクラムのように勝つまで押し続けろ

1:00~

これを理解してくれ。

何度も言うが、私たちは(勝利に)近づいている。

毎日、私たちは(勝利に)近づいているのか、前進しているのか、という質問を受け続けている。

そして、その答えは「イエス」だ。

ラグビーやコンタクトスポーツをやっていた人は、スクラムやラックの中に入っていると思ってくれ。

あなたは相手を押しているのだから、自分の位置をキープするだけでも痛い。

このスポーツをやったことのある人ならわかると思う。

しかし、深く掘り、もう少し強く押す、もう少し強く押すと、文字通り数インチずつ前進し、相手が折れ始めるのを感じるだろう。

そして、それが励みになって、あなたは進み続けることができる

トライラインがだんだん近づいてくるのがわかる。

しかし、あなたは参加し続けなければならない。

だから、今ここでやっていることは、このムーブメントを成功させるために根本的な重要事項なんだ。

あなたが参加し続ければ、私たちは勝てる。

あなたが参加するのを止めれば、私たちは負ける。

簡単なことだ。だからただ参加しなさい。

もし、誰かが、「参加しても何もならない」と言ったとしてもだ。参加することがすべてなのだ。

すべてだ。

あなたがここにいるという事実で、あなたはこの戦争に勝っている、あなたはそのラックの中にいる。

あなたの体重が相手を押し付け、相手は負けているのだ。

トライラインがだんだん近づいてくる。

そしてそれは、あなたが思うよりずっと近くにあるのだ。

なぜなら、もう一度この例えを続けるなら、

相手が力負けしたとき、

あなたは正しいことの全体を見ることになる。

犯罪がただ前に倒れて明らかになる。

そして、誰かがタッチダウンをしたかどうかを確認するために、体がラインを超えてボールから離れた。

彼らはもうそうなった。

ボールの上にこの片手がある。

そして、あなたは得点し、あなたが勝つ。

それが、私たちに起こることなのだ。

このようなことが起こるのは、あっという間だ。

次の土曜には、あなたは家で準備をしていることだろう。

そして、州知事が議会を解散したという声明を聞くことになるだろう。

[拍手]

しかし、あなたは押し続けなければならない。

押し続けなければならない。

あなたは参加し続けなければならない。

他所へ行けと言う奴は無視しろ。

キャンベラに行けなくても、大丈夫。

地域の議会で、州議会で、何かをするんだ。

でも、ここに来れるなら、そうしてくれ。

来週の土曜日は大イベントになりそうだ。

拡散してくれ。

私たちは勝てる!

次の土曜に勝てる!

来週の土曜日、我々は充分な人数を揃えれば、それは終わった、我々は勝った。

皆の手にかかっている。

そして、あなたの知っている人たちも、相手の奴らもわかっている。

私たちは勝てる。

次の土曜日に勝てなければ、勝つまで何度でも戻ってくる。

私たちは勝つまで続ける。

続けなければならない。

私たちは衝撃に備えなければならない

これから崩壊が起こったら、

国中が今まで見たこともないような歓喜に包まれることだろう。

第二次世界大戦の翌日の写真を見たことがあるだろうか。

安堵の高揚は計り知れない。

しかし、その直後にはドラマが待っている。

そして、私たちはそれに備えなければならない。

なぜなら、多くの人々が真実を受け入れることができないからだ。

多くの人が受け入れることができないだろう。

嘘をつかれ、子供を殺されたと気づいた人たちによる暴力、散発的で集中的な暴動が起こるだろう。

それはどうしようもない。

私たちはそれを奨励しないが、それは起こることだ。

覚悟しなさい。

この話をするのは、ニュースの衝撃が伝わらないようにするためだ。

「ああ、こうなることは分かっていた」と思ってもらうためだ。

醜くくて散らかったこと、それが起こる。

暴動が広がらないよう、私たちはできる限り最小限に抑える必要がある。

さて、ここで問題なのは、

もし暴動がエスカレートするなら、充分に広がることになるだろう。

そして、暴徒はおそらく何らかの手段でそれに値する悪い奴らを狙うだろう。

そして何が起こるかというと、悪い奴らは、

この国には戒厳令はないので、戒厳令が可決されるだろう。

しかし、彼らは法案を通過させ、それが法律だと言って、私たちをさらに厳しく締め付けるだろう。

これが暴力的になったら起こることだ。

しかし、次のことを理解しなさい。

暴動は極右と言われる組織がやることではない。

自分の子供を殺してしまったと知ったパパやママたちによってだろう。

また、その報いを受けたくないがために集団自殺をする者もいる。

証拠は、1945年のドイツだ。

帝国が崩壊すると、すぐに集団自殺が起こった。

そして、ある夫婦の有名なセリフがある。

「私たち全員を殺した後、自殺すると約束してください」。

そうなってしまうのだ。

だから、みんな理解してくれ、我々は勝つんだ。

オーストラリアの歴史上最もエキサイティングな時間になることだろう。

しかしその後、私たちはこの国を助け、癒し、導くことが求められている。

私たちが今いる場所から、あるべき場所へと。

わかるだろうか。

そしてそれは、あなた方ひとりひとりの力を必要とする。

なぜなら、あなたはここにいて、目覚めていて、 何が起きているのかを知っている。

あなたは、奴らが私たちに与えたこの堕落のすべてを自分で処理してきた。

だが他の者は……どうなのかわかるだろう。

初めてウサギの穴に入って、そしてまた戻って来て次のウサギの穴に入って、

あなたはただただ疲れて、嫌になった。

あなたはもうあきらめたくても、あきらめることはできないと知っていた。

だから今日ここにいるあなたたちはオーストラリアを背中に背負っているのだ。

そして、それは隣の家の人であり、仕事仲間のことだ。

しかし、あなたはそれをしなければならない。

私たちがやらなければならないのは、

オーストラリアを今ある姿からあるべき姿にするために互いに協力しなければならない。

戦争に勝つことは一つに過ぎない。

平和へと導くことは全く別のものだ。

歴史上初めて、このグループは戦争に勝ち、平和を勝ち取ることになるだろう。

それが私たちの仕事なのだ。

[拍手]

EBS(緊急放送システム)について

7:30~

さて、EBS、緊急放送システムとは、アメリカのシステムだ。

大統領は緊急時に様々な手段で全国民と即座に通信できる権限を持っている。

明らかにここでも適用されるのかと言えば、直接には適用されない。

私たちに影響を与えるか?

もしそれがアメリカで起こるなら、もちろん、それは間違いない。

なぜなら、もしアメリカでそれが起こるなら、それは良いことがここで起ころうとしていることを意味するからだ。

わかりますか。

それが起こることを私が確信しているか?

ノー。

しかし、論理的に考えなさい。

もしアメリカでEBSが実行されたら、それはもう一人の男ではなく、トランプから来る。

トランプから来ることは良いことだ。

今、地球を考えてみると、いくつかの国がそれぞれ独立している。

この混乱を解決しようとすると、大規模な物流の悪夢になる。

だから時間がかかるのだ。

私が皆さんにお願いしたいのは、もう何ヶ月も前から言っていることだが、食料と水を備蓄しておくことだ。

また、燃料も十分に用意しなさい。

缶詰とバーベキューのガス。

そして、ウサギの穴に入りきっていない隣人のために十分な量を用意する。

「子供がお腹を空かせています。ベークドビーンズの缶を下さい」と言ってドアをノックしてくるからだ。

というわけで、「10日間の暗闇」と言われる日がやってくるかもしれない。

それはわからない。

保険と同じで、必要な時まで必要でなかったということだ。

わかりますか。

だからそれはアメリカで起こり得る。

ここオーストラリアでは、その影響があるだろう。

それは良いことだが、醜いこともあるかもしれない。

わかるだろうか。

よし。

自分の面倒は自分で見られるように、しっかり蓄えておくように。

できる限り自活する。

台湾と中国について

13:20~

よし、まず台湾から言おう。

ロシアがウクライナに進出したように、中国が台湾に進出するのではと怯えさせるつもりだろう。

それは間違った例えで、そんなことは起こらない。

ただあなたを怖がらせるためだ。

それが第一のポイントだ。

第二のポイントは、一部は私の意見であり、一部は情報だ。

習近平は少し前に転向した。オーケー。

彼はしばらく前からホワイトハットと仕事をしている。

しかし、他の複雑な大組織と同じように、このことを理解しなさい。

その組織には他のプレイヤーもいるので、非常にデリケートなゲームにならざるを得なかった。

中国にいるナンバー2の男、、、名前は忘れたが。

それは問題ない。

彼は、人身売買を導入する世界的な流通で大きな役割を果たした。

もう一度言うが、(中国という)主権国家の政府について話しているのではない。

犯罪カルテルのことだ。堕落した犯罪カルテル、それが奴らだ。

それが奴らの関心事だ。

お金、キャッシュフローを追え。

現金と子供たちさえいれば、奴らは幸せなんだ。

だから、中国、

私の意見では、病気は転向して

彼らは今、ホワイトハットと実際に働いている。

彼らは働いているんだ、彼らは善のための力なんだ。

しかし、これだけ大きな組織なので、同調していない人がいることも理解しなさい。

ところで、オーストラリアも同じようなことがあった。

タマラが言ったように、奴らは負けている、負けているのだ。

しかし、彼らの多くはまだ降伏していないが、そのうち降伏するだろう。

だから、中国は現段階では問題ない。

何を言っているのか、何をやっているのかという意味で。

その通り、彼らは何の問題もなくいつも通りであるかのように報道している。

実際のところ、ノー、そんなことはない。

中国は、ディープステートにより開発され、テストされた後、地球上の他の地域に展開されるシステムだったのだ。

それが中国なんだ。

” 技術と国際開発の未来のシナリオ ”  ロックフェラー財団 2010年 の、解説動画(日本語字幕)

中国は1945年当時、ディープステートが作った国家だった。

これを聞いたことがない人がいるかもしれないが、

第二次世界大戦中、日本軍と戦っていた蒋介石の民主党と毛沢東の共産党の2大グループがあった。

ウェデマイヤー将軍は、その作戦地域を監督するアメリカ人将軍だった。

彼は統合参謀本部のジョージ・C・マーシャル将軍から、戦後は毛沢東の共産主義者が政府の半分を占めるようにするように指示された。

ウェデマイヤーは「冗談じゃない、この男は犯罪者だ」と言った。

「彼は政治的指導者ですらない、ただの犯罪者だ」。

「我々は蒋介石を支持すべきだ」。

「彼はいわば民主主義の候補者だ」。

マーシャルはウェデマイヤーに「だめだ」と言った。

「毛沢東が我々の男だ」。

そしてマーシャルは蒋介石を武装解除し、民主党は台湾に撤退した。

中国が実はディープステートが作ったものであることがわかると思う。

そしてその瞬間、ディープステートは6億人の中国人を共産党に引き渡し、こうして彼らは立ち上がった。

世界の共産主義革命は、世界人口の20%以上で成功したことは一度もない。

だから彼らは、これは民衆のために最善を尽くそうとする善良な共産主義者による、貧しい虐げられた農民の大衆運動だと考えている。

まったくそうではない。

その後40~50年かけて、全世界を支配するシステムを開発した。

後期には追跡システム、顔認識システム、社会的信用システムも含まれ、奴らは我々をコントロールするためにここオーストラリアにそれを展開しようとした。

同じものだ。

中国は巨大で複雑な獣だ。

しかし、指導層に(善側の)浸透が起こっていて、

ブラックハットがホワイトハットの指示を仰いでいる。

わかりますか。

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」

同じことを繰り返さないために歴史から学びましょう。

ナチス時代まん延した集団自殺、ドイツの知られざる物語

ドイツで何が起こったか調べたら出てきた記事です。
恐ろしい話ですが、現実を直視して知っておいたほうが何かがあったときの助けになると思います。

以下引用です↓

ナチス時代まん延した集団自殺、ドイツの知られざる物語
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190810-00010000-clc_teleg-int

暖かい日差しが感じられる午後、ドイツ北東部デミンの住民たちは、町を流れる3本の川へ向かう。
ペーネ川のほとりでは、釣り人がきらめく川面に釣り糸を垂れている。

これといった特徴のないのどかな風景だが、ここはドイツ史上最多となる集団自殺が行われた場所だ。
1945年4月30日~5月3日、若者も年配者も、金持ちも貧乏人も関係なく数百の家族がこの川に入水したのだった。

この町は、疫病のようにドイツ全土にまん延した集団自殺の中心地だ。
ナチス・ドイツの弱体化に伴い、全国で数万人が自殺を選んだ。
デミンには当時、数千人の避難者を含め1万5000人ほどが住んでいたが、このうち推定1000人が自殺したとされている。

ナチス高官らの自殺については記録が残っている。アドルフ・ヒトラーはソ連軍がデミンに侵攻した4月30日、
総統地下壕でシアン化合物のカプセルを飲んだ後、新妻エバ・ブラウンとともに拳銃自殺した。
また、ドイツ軍の将校554人のうち53人は、法の裁きを受けるよりも自ら命を断つ方を選んだ。

あれほど多くのごく普通の男女が、ナチス高官の後を追ったのはなぜなのか。
これがドイツの歴史家でドキュメンタリー制作者でもあるフロリアン・フーバー氏(51)の著書のテーマだ。

フーバー氏が特に注目しているのが、自殺者数が圧倒的に多いことが調査によって判明したデミンだ。
「英雄でも悪者でもない普通の人々だ」とフーバー氏は話す。「理由が分からないまま、彼らを忘却の彼方に追いやりたくはない」

私たちは今、デミンの町営墓地に立っている。1945年5月、
ここでマルガ・ベーンケという名の10代の少女とその母親が、死者の集計をするというおぞましい任務を命じられた。
普段は花の注文用紙として使われていた紙に少女が書き残したその古い記録を、フーバー氏は手に入れた。
それによると、集団墓地に埋葬された自殺者は計612人に上った。だが、民営墓地にはこれよりも多くの人が埋葬されている。

自殺者のうち身元が判明しない人は数百人に上った。
これらの人々は単に身元不明と記載されたが、うち約3分の1は子どもと乳児だった。
ベーンケさんは、こうした人々の記憶をとどめておくために、ハンカチに刺しゅうされたイニシャルや衣服の特徴など、
身元特定につながりそうな情報を書き残していた。

共犯意識と罪悪感

戦後の東ドイツ再建では実用的な建物が建てられたが、デミンもその一つだった。
このため町全体が、つらい記憶を思い起こすことを拒んでいるようにも見える。
当時6歳だったバーベル・シュレイナーさんは1945年、現在のポーランドに位置するシュチェチンから逃れた後、
母親や兄とともにデミンにたどり着いた。
「多くの人々はただすべてを忘れたいと思っている」とシュレイナーさんは話す。

ソ連軍がデミンに侵攻した日、シュレイナーさんは家族と地下室に身を隠し、翌朝にそこから脱出した。
「通りは言語に絶するほどの火の海となっていた」
「あちこちに遺体があり、川は血で赤く染まっていた。木の枝にひもをかけて首をつっている人もいた」

皮肉なことに、デミンが戦火に見舞われたのは1945年4月30日以後のことだった。
それまでは、戦略的に重要な場所ではなかったため爆撃すら受けたことがなかった。

デミンでは、たいまつを掲げるトーチパレードや集会、ユダヤ住民や共産主義者の追放といった
全国的な行事も実施されてはいたが小規模だった。ヒトラーが1933年に首相になると、
党員らは町役場の前でかぎ十字の人文字を作り、メインストリートはアドルフ・ヒトラー通りと改名された。

ドイツ東部を嵐のように進んでいたソ連軍は4月30日、そのアドルフ・ヒトラー通りからデミンに入った。
ソ連軍が通った場所にはすさまじい破壊の跡だけが残された。ソ連は東部戦線での激しい戦闘の報復として、
一般女性を集団レイプし、無差別殺人や略奪などを行った。レイプの被害者は200万人と推定されている。

ナチス・ドイツは12年間にわたり国民に対し、ソ連軍の手に落ちた時の恐怖をあおるプロパガンダを展開していたが、
ソ連軍の残虐行為はプロパガンダが現実のものだったということを証明したとフーバー氏は指摘する。
「ソ連軍は怪物だと住民らはその目で見て知った」

デミンに侵攻したソ連軍は、撤退したドイツ軍が町の外へつながる橋を爆破したことを知り、
足止めされたことに気付いた。地元のヒトラー・ユーゲント(ナチス青少年組織)に数発発砲されると、
ソ連軍は集団レイプと殺りくという形で報復した。

だが、ソ連軍に一時的に町を占領された恐怖だけが自殺の原因であると考えることは、
ナチス政権下の多くの人々の心をむしばみ始めていた共犯意識や罪悪感を無視することになるとフーバー氏は指摘する。
ソ連軍侵攻の数日前でさえ、デミンで21人自殺者がいたとの記録がある。

ドイツの一般市民は、祖国の本当の恐怖をどれだけ知っていたのだろうか?
フーバー氏によると、デミンで毛皮や記章を売る店を営んでいた女性の日記に基づくと、
この女性の店で働いていたユダヤ人の見習いはある日、町の外へ移送されたという。

「彼女は知っていた」とフーバー氏は話す。
「誰もが知っていた。強制収容所の存在やそこで正確に何が行われているのかを知っていた人はほとんどいなかったが、
そのようなことが進行中だということは誰もがうすうす感じていた。目を閉じることはできない。
わずか数年のうちにこれほどの人が姿を消せば、誰だって疑問に思うはずだ。自分もそうなるのかもしれないのだから」

それこそが罪悪感だとフーバー氏は言う。
当時、米軍の占領下にあったフーバー氏の故郷バイエルンの村でさえ、多くの自殺者がいたという。
ベルリンの1945年4月の自殺者数は3881人だったと記録されている。

フーバー氏はまた、地域社会で自殺が疫病のようにまん延していたとも考えている。

本を出版して以来、フーバー氏の元には、終戦時に親族が自殺したという人の声が全国から寄せられている。
その多くが、これまで誰にも話したことがなかったという。

ある時、フーバー氏がデミンを訪れると、高齢の女性が近づいてきて両手首の傷を見せた。
1945年に母親がかみそりの刃でかき切ろうとした時にできた傷だという。
「女性は何が起きたかを話してくれた」「何の感情も何の脈絡もなく、ようやく吐き出せたかのようだった」とフーバー氏は振り返った。

https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1568656524/-100

ドイツの過去―ナチス後の4段階による克服プロセス ~マティアス・バルトケ氏講演録~

ナチスのホロコースト=コロナワクチンのホロコーストと置き換えると、
近い将来の参考になると思います。
同じことを繰り返しているのだから歴史から学ばないといけません。

Yahoo!ニュースは掲載期限が切れて記事が削除になるといけないので
以下に載せさせていただきます。

これから、ドイツでは、戦後、どのようにして過去が総括されていったのか、その辛く困難に満ちたプロセスについて、4つの段階に分けてお話したいと思います。しかしその前提として、ドイツの第二次世界大戦に至るまでの過程と、その後起こったことについて簡単に述べたいと思います。

ナチスは1933年に民主的な選挙で選ばれました。しかし、権力掌握の直後、ナチスは民主主義の原則を根こそぎ失効させました。主要な社会民主党員と共産党員は即刻逮捕され、多数が殺害されました。ナチスの特徴は、狂信的人種主義と軍国主義であったと言えます。さっそく大幅な軍拡に着手し、1939年9月1日にポーランドへ侵攻しました。こうしてヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発したのです。ヨーロッパでの戦いは、4400万人の死者をもたらしました。そのうちの2300万人は民間人です。そして、そのうちの1300万人はドイツのSS親衛隊やナチス軍により殺害されました。とりわけポーランド、ソ連、セルビア、ギリシャの人でした。残虐さで突出していたのは、600万人以上のユダヤ人に対する大量殺戮です。これは1941年末に開始されました。一つの民族のほぼ全てが、完璧に組織された手法で、あたかも工場の作業のように大量殺戮されたのは、歴史上他に類を見ません。この大量殺戮の同義語となったのは、ドイツがポーランドにつくったアウシュビッツ強制収容所です。ここだけでも100万人以上が殺されました。

第一期「抑圧の段階」

それではドイツは戦後、このような悲惨な過去をどのように総括したのでしょうか。私はドイツにおける過去の総括の第一期を「抑圧の段階」と呼ぶことにします。

終戦直後、多くの市民が上記のような過去から目を逸らし、過去を抑圧しており、ファシズムを総括するなど全くしませんでした。それは過去と自分の役割を直視したくなかったからだと言えます。また、それ以前にドイツという国が破壊されていましたので、最も重要な課題となっていたのは、復興と生き残ることでした。そのおかげと言えるでしょうか、過去や自らの罪と取り組まずに済んだのです。では、一般の市民は実際に戦争犯罪について何を、どれくらい知っていたのか、また、知っていなければならなかったのに知ろうとしなかったのは何でしょうか。

少なくとも事実として明らかなのは、1945年5月8日にドイツは軍事的のみならず道義的にも敗北を喫したということです。戦後、ドイツの名で行われてきたむごい戦争犯罪が明らかになってきました。国民はただ単に呆然とするだけでした。戦争に敗れたという事実に加え、自分たちが犯罪者に手を貸していたという認識も生まれたのです。戦争で家族は崩壊し、母親は子供を失いました。さらに、これでもかと追い打ちをかけるように認識しなければならなかったのは、家族も子供も結局は犯罪のために犠牲になってしまっていたということです。

このような認識は、アメリカ占領下での再教育によってさらに強まりました。再教育でアメリカはまず、ドイツが強制収容所を中心に行った残虐行為について徹底的に説明し、組織的に市民に対して収容所への訪問を強制しました。また大量殺戮の詳細を映画にして市民に見せていきました。当然、効果が出ないわけはありませんでした。この時には、新聞やラジオも再教育の手段として使用されました。

1946年以降になると、再教育の重点は、ナチスの犯罪を解明して市民を怯ませるという手法から、よりポジティブな内容を伝える手法に変わりました。これは「再方向づけ政策」と呼ばれ、西側占領地域を西側風の民主主義国家に再構築することを目的としていました。特に教育政策とメディア政策に重点が置かれていました。

そして、ドイツ国民の戦争への集団的罪をめぐる議論が起きました。本当に国民全員が残虐な犯罪に対して罪があったのだろうか。そうだとするならば、この罪は次の代にも受け継がれていくものなのだろうか。連帯責任の議論についても、「集団責任があることによって、個々の具体的な加害者の罪があってはならないかたちで免除されることにはならないか」という問いも投げかけられました。この連帯責任の議論は、ドイツ国民から「ホイスパパ」と呼ばれたドイツ初代大統領テオドール・ホイスによってほぼ終結しました。ホイス大統領は「連帯責任はないが、起きたことに対する集団的な恥辱はある」、「ヒトラーは我々に多くのことをした。その中でも最悪なことは、ヒトラーやその一味と共に『ドイツ人』という名前を背負わなければいけないという恥を担わなければならなかったということだ」と彼は述べました。

このようにしてドイツの名で行われた類例なき犯罪が認識されるようになり、それによって一つの大きく、ポジティブな成果がもたらされました。それは、1945年以降のドイツでは、ナチス体制を擁護しようという人間は、責任感のある政治家の中にはいなくなったということです。当然、犯罪を矮小化する過去にとらわれた者もいました。また、救いようのない昔からのナチス支持者も当然まだいました。しかし、そういった人間も少なくなっていきました。

その一つの重要な節目となったのは1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判です。この裁判は社会の中に大きな関心を引き起こしました。過去を抑圧することなどはもうできなかったのです。起訴されたのは、アウシュビッツ収容所の幹部合わせて22人でした。ほぼ全員が、数千人をこえる殺人幇助あるいは殺人で有罪となりました。この裁判の発起人はフランクフルトの主席検事フリッツ・バウアー氏でした。

ドイツ人でさえもあまり知らないことですが、バウアー氏は、裁判の数年前にユダヤ人殺害の首謀者であるアドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという確かな情報を手に入れていました。アイヒマンは、指名手配されていたナチス重要犯罪人の一人でした。バウアー氏はこの情報を同僚の誰にも、そして、警察にはなおさらのこと知らせませんでした。それは、アイヒマンに用心するよう忠告されてしまうことを心配したからです。その代わりバウアー氏は、イスラエルの秘密情報機関モサドに情報を流しました。モサドは電撃作戦により、アイヒマンを捕え、その後アイヒマンは、イスラエルによってエルサレムで起訴され、処刑されました。このアイヒマン裁判もドイツで大きな関心を呼びました。哲学者のハンナ・アーレントはこの裁判を記事にして、それを一冊の本として出版しました。そのタイトルは『エルサレムにおけるアイヒマン―悪の汎用さについて―』というもので、ドイツで大きな反響を呼びました。

第二期「罪をめぐる論争」

アウシュビッツ裁判、アイヒマン裁判は世論に影響を与え、とりわけ若い世代の心を揺さぶりました。これが如実に現れたのは、1968年の学生運動です。この学生の抗議活動こそ、ドイツの過去の総括プロセスにおける第二期「罪をめぐる論争」の始まりだと言えます。罪への取り組み、罪と向き合う時期だったとも言い換えることができます。

ナチスの犯罪、ナチス戦犯への1950年代の裁判における判決が手ぬるすぎたと多くの人が感じたことが、この学生運動の一つの原因でもありました。しかしより批判が強かったのは、いまだに国の重要なポストにナチス系の人間が就いていたということです。そのため、「ドイツは過去から何も学んでいないではないか」という批判が湧き上がりました。1968年の抗議運動は、疑いなく多くの点で非常に正当だったと言えるでしょう。この運動によってドイツの政治が大きく変わる機運の一つが生まれました。

1969年には、この雰囲気が変わったことで、政権交代によりドイツ社民党から首相が出ました。この首相がヴィリー・ブラント首相です。ブラント首相はナチスの政権掌握直後、19歳でスカンジナビアに亡命しました。そして、亡命先から反ナチス活動を、1945年5月8日のナチス体制崩壊まで続けました。ブラントは1969年の所信表明演説で、「私たちは良き隣人がいる国になりたいのだ」という歴史的な言葉を残しました。ヨーロッパにおいて、ドイツは一番多くの国と国境を接していますから、この言葉は近隣諸国との関係を改善させたいという希望の表れでした。とりわけ東側の国々、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドが念頭にありました。これらの三つの国々全てとブラント政権は条約を結び、法的問題や領土問題で合意を達成しました。これがいわゆる「東方外交」と呼ばれたものです。

国内でもっとも異論が巻き起こったのは、ポーランドとの条約です。これは、かつて東方にあったドイツ領の最終的な放棄を確定させるものだったからです。これらの領域は大戦後、事実上ポーランドの領土となっていました。何ヵ月も国内で議論が行われ、あわやブラント政権打倒かというところまでいきました。ブラント首相はポーランドとの条約締結を主張する際、「条約で放棄するものは、とうの昔に失っているものばかりだ」、「それらを失ったのは戦後ドイツの政権の責任ではなく、犯罪的なナチス政権の仕業だったのだ」と述べました。

旧ドイツ東部領に関して、当時のドイツの人々の引き裂かれるような悲しみの感情がよく分かるエピソードがあります。ブラント首相は、質の高さは一番だと見られていたある週刊新聞の女性発行人に「ポーランド訪問へ同行してほしい」と依頼しました。デンホフというその女性発行人は、旧ドイツ東部領で育った人だったのです。出発前日になって、ブランド首相は彼女から手紙を貰いました。デンホフは「ブラント首相の対ポーランド政策は正しいし、他の選択肢はない」と強く支持する一方で、「同行はできない」とも書いてきました。故郷が最終的に失われてしまう場面に立ち会うのは辛すぎるというわけです。ブラント首相は「非常によく理解できる」と返答しました。

ポーランドとの条約調印の日、ブラント首相はワルシャワのゲットーの英雄記念碑の前で献花を行うことになっていましたが、花が捧げられた時、突如記念碑の前に跪き、そのままの姿勢でしばらく動きませんでした。この彼の姿は、人々の心に極めて強く訴えました。何しろドイツの首相が、ドイツの国民の代表として、謙虚な姿を見せて、かつての敵国、そして被害を受けた犠牲者たちに許しを請うているのです。「このワルシャワの出来事だけでも、ブラント政権が誕生した意味が十分にあった」と述べる人々もいます。

ポーランドとの条約では、共同教科書委員会の設立も取り決められました。両国の学校教科書における、ドイツ―ポーランド関係の記述が相当酷いということが問題になっていました。この共同教科書委員会では、「両国の歴史が、それぞれの国でどのように記述されるべきか」ということについて提言を取りまとめるということになりました。この試みはうまくいき、今日までこれは続いています。

さて、この第二期では、ドイツの歴史家たちが、ドイツの罪をどうとらえるかについて論争を行いました。一方のグループは「他の独裁でも同様に恐ろしい虐殺が行われたこともあるのではないか」という主張を行いました。具体的には、スターリンのソ連と、ポルポト時代のカンボジアです。これによってドイツの罪を相対化しようと試みたわけです。もう一方のグループはこれに反論し、「ドイツの大虐殺はそれらとは全く違う」と主張しました。ドイツの虐殺は、当時のドイツの役所がドイツ的な徹底性をもって、官僚的に完璧に工場作業のように組織化して行ったものであり、歴史上類を見ないと主張したのです。

第三期「歴史的罪の受け入れ」

東側近隣諸国との一連の東方条約は、1970年代初頭、ドイツ国内で大きな政治的議論を巻き起こしました。しかし、非政治的な人々にも影響を与え、その心を揺さぶったものがありました。1978年に放送された、メリル・ストリープが主演した、ハリウッドの4回連続テレビドラマ「ホロコースト―戦争と家族」です。このベルリンに住むユダヤ人家族・ヴァイス家を描いたテレビドラマの放送が、第三期「歴史的罪の受け入れ」の始まりだったと言えるでしょう。

このドラマは、ドイツの歴史の総括において重要なステップとなりました。とりわけ、若い世代の感情に訴え、ドイツ史の暗部を理解する手助けとなりました。つまり、抽象的なデータを突きつけられるのではなく、ヴァイス家という具体的な家族の経験を追体験することで理解が容易になったのです。幅広い層が感情移入できた背景には、当時のドイツにはなんとテレビチャンネルが2つしかなかったという事情もあります。1のチャンネルでドラマをやっていれば、全国民がそのドラマを見ると言っても過言ではないのです。

当時のドイツ国民が自分の国をどうとらえていたかというのは、ハイネマン大統領の言葉がこれを示しています。彼は「世の中には難しい祖国がいくつかある。ドイツはその一つだ。しかしドイツは我々の祖国だ」と述べたのです。こうした自国の過去に対して批判的な態度は一般に広がっていたのですが、とりわけ若い世代においては、自分の国が好きでなくなる傾向が強くありました。「ドイツは格好が悪い、クールじゃない」というわけです。一つ、分かりやすい例を出しましょう。私が学校に通っていた頃、アーミージャケットが流行していました。このジャケットの肩にはドイツの国旗のワッペンが付いていましたが、皆これを着るときは、ワッペンを外すか、塗りつぶしました。そうしないで着てしまうと、「ナショナリスト野郎」、「馬鹿野郎」とみなされてしまい、とにかく格好が悪かったのです。

この「自分の国が好きになれない」という状況は、もう一つ別の現象にもつながりました。おそらく人間の心の中には、「みんなで共有できるネイションを持ちたい」という憧れがあると思うのですが、ドイツでは、その憧れの向かう先がヨーロッパになったのです。欧州統合は、ドイツ人と自国との関係がギクシャクする中で、国の代わりとなったのです。全ドイツ人が統合を望んでいました。事実、その結果として、欧州統合をドイツほど積極的に推し進めた国はありませんでした。つまり、他の欧州諸国とは全く逆に、できるだけ多くの権限をEUに移譲し、各国に残す権限はできるだけ少なくしたかったのです。

この第三期を知的な意味で象徴するのは、おそらくあの伝説ともなったワイツゼッカー大統領の、終戦40周年を記念した、1985年5月8日の演説でしょう。ワイツゼッカー大統領はこの演説で「欧州の終戦の日は各国によって受け止め方が全く違う。しかし、ドイツ人にとっても、この日は敗北の日ではなく解放の日である。ナチスの暴力支配による非人間システムからの解放の日である」と述べました。ワイツゼッカー大統領はまた、この演説で「前の世代は後の世代に、重い遺産を残した」と語りました。そして、全てのドイツ人に対してこの遺産を引き受けるように呼びかけたのです。

第四期「過去からの解放」

さて、痙攣や麻痺といったものに襲われていても、それはいつか緩和に向かいます。それと同じようにドイツ人と自国との間のギクシャクした関係も和らいでいきました。これを一つの時代区分として見て取ることができます。ドイツのサッカーワールドカップです。このワールドカップこそ、最後の第四期「過去からの解放」を象徴する出来事だと言えると思います。というのも、ドイツのナショナルチームにかなりの割合で移民の選手が加わっていたからです。これらの選手はドイツ生まれではないものの、「自分は100%ドイツ人である」と感じている選手たちでした。そして非常に素晴らしいサッカーをしてくれました。ブラジルチームよりも情熱的でした。

ワールドカップでは、60年来初めて、ドイツ国旗が街中のあらゆる場所にはためきました。私自身も、ドイツチームの試合の日には、自分のバイクに国旗をつけて走っていました、昔とは変わったのです。ドイツの旗は、「尊大な国ドイツ」、「攻撃的な国ドイツ」の象徴ではなく、純粋にドイツ人であることの喜びを表現するものになったのです。スポーツは、移民が社会に溶け込み各国間の相互理解が進む方向を、政府のどの政策よりも強く実現してくれたと言えるでしょう。

昨年、20ヵ国の2万人を対象に「どの国が好きか」という調査が行われました。結果は、なんとドイツがアメリカを抜いて、一番人気のある国になりました。イスラエルにおいてすら同じ結果になりました。50年代、60年代、ドイツはナチス時代の犯罪ゆえに、国際社会でいわば賤民扱いを受けていただけに、これは非常に注目すべきことです。かつては、ドイツと交流したいと思う国など全くありませんでした。こうした前向きな変化につながった重要な要素は、ドイツ人が、確実に、そして容赦なく自国の歴史の影の部分と向き合い、自分たちの歴史であると徹底して認めた姿勢を示したからであると言えるでしょう。

この「徹底的に過去と向き合う」という姿勢は、これからもドイツのレゾンデートルであり続けます。私たちは、60年以上かかる長い道のりではありましたが、最後には自分たちの立ち位置というものを国際社会の中で再確立することができたのだと思います。ご静聴ありがとうございました。

ドイツの過去―ナチス後の4段階による克服プロセス ~マティアス・バルトケ氏講演録~

リカルド・ボジの他の記事

タイトルとURLをコピーしました